|
・ |
その一 |
|
|
|
子供のころの私は、からだが非常に弱く、年中病気をしていました。親の背中に乗せられて、夜間に開業医の玄関をくぐることも多かったと思います。4歳の夏には肺炎をわずらいましたが、入院を拒む母の意思により自宅の二階で寝たままの状態でした。朝晩往診していただき、注射をしていただいた記憶があります。しかし一向に回復する気配はなく、食欲も薄れ、大きなガラスのボトルがぶら下げられることも増えてきました。あとでそれがブドウ糖の点滴だったと知りました。 |
|
|
|
自宅での療養生活も2ヵ月を超え、徐々に衰弱していくなかで入院の話が浮上しましたが、母は再度これを蹴り、主治医の交代という決断をしました。 |
|
|
|
いまの私からいえば暴挙としかいえない行為ですが、のちに母から聞いた話では、遠く50kmも離れた病院に4歳の子供を一人おいては帰れない、という気持ちがあったそうです。どうせ駄目ならこのまま家で、との思いも心のどこかにあったようです。よく枕元で泣いていたのも、あとから聞けばそういった理由だったのかと理解できます。 |
|
|
|
私が幸せだったのは、さいわいまだ物心がつくかつかぬかのころで、病に対する苦しみや不安がまったくなかったことです。 |
|
|
|
唯一、なぜこんな晴れた夏の日に、窓を閉めきった状態で、自分は一人部屋にいるのだろう、という疑問がありました。そのころの私の喜びは、階段をのぼる家族の足音でした。悲しみは、なんらかの理由でその足音が途中で遠ざかっていくことでした。さいわい、ここから私は一気に回復し、以後ブドウ糖の点滴の世話にならずにすみました。 |
|
|
|
この闘病生活がトラウマとならずにすんだのも、母が、そして家族が、開業医の先生が、あるがままの生活空間に私を置いてくれたから、と思います。 |
|
|
・ |
その二 |
|
|
|
研修医時代、私はあるベテラン看護婦さんのご自宅に食事に招かれました。ご家族のみなさんとの食事もおわったころ、
|
|
|
|
「実はね。」 |
|
|
|
と看護婦さんの声とともにふすまが開けられました。そこには、からだに黄疸が出現した、いわゆる寝たきりのご老人が横たわっておりました。 |
|
|
|
私が、 |
|
|
|
「即、入院しましょう。」 |
|
|
|
という前に、看護婦さんの口から、 |
|
|
|
「父は、脳梗塞になって、もう、10年以上寝たきりで、兄嫁がずっと看病してきたの。家族の考えは、無理な治療をしないで、ここで最期を迎えさせてあげたいの。協力してくれるわね。」 |
|
|
|
と 、親戚10人ほどに囲まれた状態の中、強い意志をたたえた眼差しと、穏やかな口調を持って私に告げられたのです。私は拒否する術もなく、うなずくしかありませんでした。 |
|
|
|
その10日後、ご家族の見守るなか、なぜか幸福感さえ漂う雰囲気のなかで最期の場面は訪れました。死というものは、われわれ医師にとってある種、敗北感が漂うものですが、不思議とその場にいた私にはそれはまったくありませんでした。 |
|
|
|
不思議な夏の夜の出来事のようでした。 |
|
|
|
今後、自分の医師としての経験において、自宅での看取りは、ないであろうと思いました。それから、10年後の自分が、どこで、何をしているか、まして患者さんの自宅での診療を生業にするなどとは、そのときには夢にも思ってはいなかったのです。 |
|
|
|
|
・ |
その三 |
|
|
|
大学院の卒業を控えたある夜のこと、研究室にいると救急病院で働く友人がやってきました。来年は彼と一緒に同じ病院で働くのもいいかなと、缶コーヒーをおごりながら、現在の状況を聞き出そうと思いました。外来や当直をアルバイトでする程度で、入院患者さんをケアするということからは、しばらく離れていたのです。私自身もリハビリが必要かも知れません。 |
|
|
|
「どうよ、今の病院の状況は?」 |
|
|
|
「毎日、救急車に乗せられて患者さんがくるわけ。何とか延命しても、家族は家に連れて帰ろうとしないわけ。幹部からは、早期退院と警告を受けるけど、自宅に戻してもその晩に熱を出して、また救急車で戻ってきてしまうんだ。街の中にフットワークのいい医者がいたら、坐薬と点滴一本ですむんだけどな。俺が当直ぬ
けだして、点滴を刺しにいくわけにもいかないしな。」 |
|
|
|
この会話は、現在の医療状況の一面を物語っています。現在の医療システムでは、長期入院が困難であり、病院で、特に救急病院で最後まで、とはなかなかいきません。病院で患者さん一人を守りきる、というのは不可能なのです。頭の中で、自分がハンドルを握って患者さんのお宅に点滴を刺しにいく光景が浮かびました。 |
|
|
|
自分も、往診で救われた命。 |
|
|
|
どこかに長いモラトリアムからのトンネルからの脱出口が見つかったような気がしました。それも、正面でなく、非常口を使って。 |
|
|
|
いまの私の仕事の原点は、この三つにはじまりがあると思います。人それぞれ、家族背景やさまざまな状況・事情がありますから、みなさんがご自宅で療養ができるとは限らないでしょう。しかし、患者さんの中には、充分ご自宅で過ごされることが可能な方もいらっしゃいます。私の患者さんのご家族との話のなかで、自宅であるがままに、なすがままに居たいとのお気持ちを語られるかたが多くいらっしゃいます。むしろ、そのほうが幸せなケースが多々あります。
|